昭和42年11月10日 朝の御理解


 昨夜お芝居を見せて頂きよったらこんな記事が、明治時代だったらしいですけれども、二流系の役者が一流系の役者のあれは歌舞伎座あたりでやっておるお芝居の外題である。衣装から床山から、それから小道具に至るまで同じものを使ってお芝居をしておる。ところが入りが少ないから入場料を矢っ張り半額にしなければ見てがなかった。ですから勿論赤字にならんはずがない。そんな記事が出ておった。本当にあの同じことをして同じ形においては同じ( )に至るまで同じものを使ったと致しましても、矢っ張り入場料は半額である。本当にその信心も同じです。あの人とこの人が同じお参りをしておる。お供えも一様にしておる。まぁ見た所では、どこも変わらん。けれども、おかげが違う。入場料が違う。ここんところをひとつお互いが本当におかげを頂くかなきゃならん。折角おかげを頂いとるのでありますから、折角同じ時間をかけてお参りしておるのである。同じお金をかけて信心の稽古をしておるのである。同じ時間、御祈念をして同じ御理解を頂いておるのであるけれども、さぁうちに帰ってのおかげは( )である。
 「月ひとつ、影いろいろの踊りかな」もう本当に満月のお月様。これは同じである。その満月のいわゆる月の下で輪をかいて踊っておるのも同じである。けれどもその影はいろいろに違う。同じ信心をさしてもらい、同じような時間をかけ年季をかけてしておるのに、片一方は徳を受けておる。片一方は唯おかげを頂いているだけ。いやそのおかげすらも、どうもあやふやになっておると言うような事実があることを思うてですね、いよいよおかげのあるもなきも和賀心であるということ。信心の実力、お芝居の例を取りましたが、矢張り一流どこと二流どこの違いである。そこに同じ結局まぁ形の上においては同じことをして、同じ外題を、出し物は同じ出し物をしておるけれども、入場料は半額である。こんな馬鹿らしいことはない。
 同じ人間に生まれて、ということになるのだけれども、確かに片一方は百円の入場料をとっとる。片一方は五十円の入場料だという。これでは採算がとれない。これはおかげだけではありません。それはその修行でも同じこと。同じ修行をしておる。まぁ例えて言うなら、あの人も朝水かぶって来よんなさる。この人も朝水行をやっぱしござる。けれどもそこに、信心のまぁいわば実力というか、おかげの表れ方というのが違う。教会でも同じこと。同じ先生、同じ天地金乃神さま、同じ金光大神のお手代わりとしての先生が、いわゆる教師の資格を持った先生が、教師の資格をもっとるから人間一様のことじゃない。
 ですから本当にあのここんところをどうしてじゃろうか、あそこはなかなかやり方がええからじゃろう。ま、やり方がええと言うところがです、御ヒレイが立っているのか、そりゃわからん。そりゃ分からんけれど、矢張り問題は人がたすからなきゃならん。あすこに参っておかげが受けられた。ここに参ったらおかげが受けられないというけれども、神様は同じだけれども守り守りの力によっておかげが違う。ヒレイが違うのだととも教祖は仰っておられます。その力がならどういう風に違うのか、結局ですや矢張りその取次の信心の内容なんだ。
 いわゆる和賀心ひとつの違いなのだ。本当に身にかんなかけるような修行、脇から見ても本当に切ないごたる修行をしよんなさる。本当にあれだけの修行しなさったから、あれだけの徳を受けられた。矢っ張りそんな修行をなさったから、あれだけの徳を受けられた。矢っ張りそんな修行をなさっておられる。けれども自分の助かりというか、その信心の実力というか、そういうものはいっこう上がっていない。ならば本気でひとつ和賀心を見直させてもらい、和賀心の使い方をです、私は本気でそこんところに焦点をおき研究をさしてもらい、そこんところに本気で取り組まなければならないと言うことをです、お互いがひとつ思って見なければでけません。もう何年何十年お参りをさして頂いておる。だから形だけではいけない。折角修行さして頂くのであるから、本当に神様に受けていただくような修行でなからなきゃいけん。折角お参りをさして頂いておるのであるから、そのお参りが如何に効果的なお参りでなからなければならないか。昨夜御理解の中にも私申しましたが、昨夜は又琴の稽古があっておる。その琴の稽古があっておるのに、その矢張り一面一面の琴の調子と言うものを、矢っ張り毎夜度々調子を合わせなければいけない。いきなりに弾いたからと云うて稽古も出来ない。良い音色も出るはずがない。矢っ張り調子を合わせなければならないように、私共が修行なら修行によって、神様と私共の心の上にその波長というかね、それが合うていく為の修行なのだ。お参りだってそうだ。お参りさせて頂いて良かったというのは神様と波長があっている。親先生との心が通うておる。そこにも調子も合わせずに、いきなり弾いたところで良い音色が出るはずがない。そこで御神前に出る。御祈念をさしてもらう。前には、矢張り調子を心を先ず整えて神様に向かわなければならない。その調子を合わせていく。いわばま、要領というか、こつというかね、唯お参りをしておる。まあ、形においてはひとつも変わらない。ところが甲の人はお参りをしておるだけ。乙の人は神様の前に出るのであるから、矢張りこの神様にお参りをさしてもらう心の状態。それを作るために、心が乱れていかん。心がどうも神様に向かう状態じゃない。それでそこに神様に喜んで頂くような修行でもちょっとでもさしてもろうて、心がま、言うならばちょっとでもそのそこんところの神様のお心に適うような修行でもさして頂くところから、調子が合う。これはまぁちょっと着物を着替えをだけでも、調子が合うことがございますですね。エプロン掛けで拝んでおったのが、ちょっとエプロンを外しただけでもピタッと調子が合うことがありますね。神様と。ま、言うならあら手を洗って来るのを忘れとったと立って手を洗って来ただけで、口をゆすいだだけで調子が整うことがありますですね。工夫なのですよ。矢張り。
 なら形においてはやっぱり一緒に拝みござる。一緒にお参りしござるけれども、その心がけが違う内容が違う。芸の力が違う。そこに同じことをしながら、入場料が高いところと安いところができてくる。同じお参り、同じ修行で片一方は徳を受ける。片一方は徳をよう受けない。おかげも受けない、ならばです、本気でそこに私共はいわゆる和賀心をいよいよ検討した上にも、又検討さしてもろうて、神様に向かわなければならない。でなかったら折角の修行が、折角のお参りが安いものになってきてしまう。同じことをしたら、同じ例えばおかげというのじゃない。信心ばかりは、もう結局その人の心なのである。おかげのあるもなきも和賀心。和賀心を私は見極めていかなければ、そこから徳を受けていく。おかげを受けていく、おかげが受けられないというような違いがでてくるのですよ。 ですから人でもなからなければ神様のせいでもない。もう結局おかげを受ける。受けられないは自分の所の為であり、自分の心の在り方ひとつでおかげが定まってくるのでございますから、そこんところを、ひとつ本気でひとつ研究さしてもらう。本気でそこんところに取り組まなきゃいかん。折角同じ修行をさしてもらっておるのですから、折角なら、今、人ん真似出来ん修行をさしてもらっておるのですから、その修行がまるとそのまま神様におうけ頂けるも頂けないも、その人の心ひとつなのである。折角その修行が水の泡というのと、それを先ずそのまま受けて頂くと言うのは、その人のほんの心がけ、心の内容次第なのだから、どうでもこれを本気で見極めなければならんということになるのですね。どうぞ